ホーム OB会 行 事 OB便り 現役便り リンク
[OB便] 2019.10.21 昭和43年夏合宿集結地 13期中谷吉伸

       昭和43年夏合宿集結地

 私達の13期は毎年同期会を行っています。今年は八幡平周辺に集まるということになりました。個人的にも時間に余裕があったので昭和43年に参加した夏合宿について、2つのことをしてみようと計画を立てました。
 一つは当時歩くことができなかった最終盤のコースを歩くこと、もう一つは当時の集結地を調べて訪れることです。前者については機会があればまとめてきたいと思いますが、今回は後者について書いてみました。
 OB会に投稿する内容としてはかなりマイナーな内容で申し訳ありませんが、しかし少なくとも30人ほど(?)のOBについては関係があることなので、報告ということで書いてみました。

 昭和43年の夏合宿は北東北の地で、東西南北の四方から岩手山山麓を目指して行われ、当方は一番下っ端の1年として参加しました。この年の夏合宿は天候に恵まれず同期の中でも評判は良くなかったようですが、そんな中で私の歩いた太平洋からのコースではそれほど悪天にはならず、個人的にも初めての本格的な山歩きだったこともあって印象深い合宿でした。
 ところがこの時の集結地は?となると岩手山東麓ということは間違いないのですが具体的にどこだったかについては当時のリーダーの方に聞いてもはっきりしませんでした。
 そこでこの機会に集結地について調べてみようと考えました。

 しかしいざ調べるとなっても、手元の資料は集結地から撮った岩手山の写真(写真1)と、当時持って行った1:50000地形図、それ以外には当時の部誌に載っている集結地の地名が「西根町平笠、西根町営牧野」(P9)ということぐらいでした。
   

 そんな時たまたまNHKの新日本風土記「岩手山」の再放送を見ていて、そのなかで「裸参り」という行事があり、その中で「平笠」という地名が出ていてそのバックに映っている岩手山が手元の岩手山の写真と同じアングルでした。そこでダメ元ということでNHKに集結地を調べたいという当方の趣旨とその当時のことを知っている人がいないかということで写真のコピーを同封し手紙を送った所、前記番組のディレクターから当時のその辺りのことを知っている人を紹介してくれましたので早速連絡を取り同期会の前に会っていただけることになりました。

 会う前にできるだけ調べてみようと、写真から岩手山からの大体の方角と集結地に至った道の検討をすることにしました。併せて現地の地図の変遷を確認するために、手持ちの昭和40年以外に、昭和43年、昭和49年、昭和61年それに平成8年発行の1:50000地形図を入手して参考にしました。
 まず方角は、写真の岩手山の頂上とそれから右に続く尾根(屏風尾根)上の特徴的な二つピーク、それと頂上直下から北東方面に続くルンゼの形状(写真1)とグーグルアースの画像を比較し推定しました。 その結果頂上から東北道の松川に架かる橋を結ぶ線の南側で、同じく頂上と宮田神社(国土地理院の地図には名前が出ていないが県道233号線(通称焼き走り線)が東北道をくぐる直前にある神社)を結ぶ線の北側であることに間違いないだろうということが分かりました。
 次に距離ですが、大更駅から集結地までのコースタイムが部誌(P22)には1時間半とあり、紹介された人と会うためその当日15㎏ほどの荷物を担いで大更駅から宮田神社まで歩いてみました。その結果1時間弱でした。宮田神社は平笠の集落の端近くにあり、私の記憶では集結地は集落を過ぎた先だったことから、東北道が集落の先を通っていることから東北道の西側で間違いなさそうです。
さらに写真1を見ると遠くに送電線(注1)の鉄塔が見えることから、集結地はその送電線の手前の図1の範囲(青色)になります。小地図は国土地理院Web地図にリンク(HP管理者添付)。

 注1:この送電線は昭和40年、43年発行の地図にはありませんが、43年当時には松川鉱山への給電用として出来ていたそうで、昭和49年発行地図(写真3)から記載されています。

 また部誌(P22)に集結地から焼き走りまで登り(多分空荷に近い状態で)1時間20分、下り1時間とあることからその集結地の場所は大更駅と焼き走りのだいたい中間付近になり、やはり図1の範囲だろうということが推測されます。
 図1の赤い点線で示したルートは、当時大更駅から集結地を目指して歩いたと思われる道で、地図上では昔も今もほとんど変わっていないことから、点線で示した地点までは間違いがないと考えています。
図1の範囲について、古い地図(写真2:昭和43年発行)とその後の地図(写真3:昭和49年発行)の地図を見比べてみました。
 なおより古い昭和40年発行地図(当時持参していた地図)と写真2の地図の違いは、写真2のA1道が記載されていないことでが、将来の県道233号線の工事が写真2の段階で進んでいたものと考えられます(注2)。一方の昭和49年地図で写真2のA2道がなくなっていますが、それ以外は以降地図でこの付近の大きな変化は見られません。
 注2:昭和43年地図は同年資料の修正がされ9月30日に発行されていますが、その修正点は道路についてのみと思われます。
 この範囲を通って岩手山の方に向かっているのは古い地図(写真2)のA道とB道だけのようです。写真2ではB道の東側にも点線の道が平笠の集落から急な傾斜面を登っていますが記憶ではそのようなところは通っていません
   

 地図上でのA道とB道は、その後道幅は変わっていますが位置についての大きな変化はないようです。写真2の地図(私たちが歩いたであろう頃)では、実線(1m~2m)のA道以外は、B道も含め点線(1m未満)です。少なくとも集結地直前の道は未舗装でしたが車が通行可能な道幅はあったように記憶していますので、その点からもA道以外の可能性は低いとは思いますが事前検討の段階で一応保留にしておきます。
 ところで10期の滝さんの話では集結地からチャーターしたバスで盛岡まで行った(P127)とのことですが、写真2の地図の通りだとバスが入ることができたのは現在の東北道の辺りまでですが、昭和49年発行(昭和45年編集)の地図ではすでに送電線あたりまで幅員5.5~11mの道が表記されているので昭和43年時点ではもう少し先まで入ることができたのかもしれず、その一部出来上がっていたA1道のどこかで乗ったのかもしれませんが‥。
 このあたりのことを覚えている方がおられればお教えください。

 ここまでの予備調査をした上で、NHKに紹介された伊藤正光(76)氏と10月5日に会いました。 氏は宮田神社の近くにお住まいで「西根町営牧野」に関わってこられたとのことです。ただ私たちの合宿については知らないようでした。なお「西根町営牧野」の事業は昭和38年から始まっています。
 先に送っておいた岩手山の写真と「西根町営牧野」の2点を基に氏に連れて行かれたのは図4の県道233号線の赤い印のところで、多分この付近に間違いないだろうとのことでした。なおこの図の北西方向に延びる道は写真2から43年当時はありません。
   

 氏の話では「西根町営牧野」の範囲は図4の県道233号線から西側なのでこの道の東側はないとのことです。現在の県道233号線は2車線の立派な道ですが、県道には昭和48年認定されたものでそれまでは細い道だったそうです。その点でも当時の状況に合致しました。

 次に地図から植生についてみます。なお現在牧草地は畑と同じ記号になっていますが昭和45年以前は、荒地の記号で牧草地も表記されています。
 写真2では図4の県道233号線に該当する道路の東側では荒地の記号が見られますが集結地の対象地と考えられる西側ではほとんど見られません。しかし写真3では県道の東側にも放牧場が広がっています。また写真には出ていませんがこの地図で初めて「西根町営牧野」の表記が見られます。
 この違いは写真3の地図が編集されたのが昭和45年なのに対し、写真2が最終的に修正されたのは昭和26年だということです。つまり写真2の地図では昭和38年から始められた牧野が反映されておらず、写真3の地図で初めて昭和43年に集結した時の状況が反映された結果だと考えます。
 以上の、当時の道の状況、伊藤氏の言う「西根町営牧野」の範囲、写真から判断した岩手山の方角そして大更駅と焼き走りからの所要時間から判断してA道(現在の県道233号線)の西側のすぐ近く(赤く印をつけた)付近で間違いないと思います。ただし集結地までは途中写真2 のA2道を歩いたのではないかと思います。
 しかしより正確な地点になると、半世紀以上経って景色が全く変わっていて、記憶にある昔の印象はなくなっているため結論は出すことができませんでした。

 伊藤氏の言う「西根町営牧野」の範囲から考えると可能性は低いと考えられましたが、時間があったので、次のような疑念と記憶の中の印象に近い場所を求めて念のため焼き走りから東北道までB道を歩いてみました(約1時間)。
 部誌のP22の「サイト(集結地)から東を通っている上坊への道路に出て、これで、Cont560付近で焼走りと上坊への分岐。左の道を行くと、道は、右左と曲りながら、から松の林の中に入って行く。所々に道標あり。Cont620付近の焼走り展望台に出る。…この焼走りにそって10分程行った所にキャンプ場あり」という記述です。
 昭和40年あるいは43年発行の地図上ではA道だと上坊と焼き走りの分岐がなく、したがってその分岐の標高が560mと分かったのかが疑問です。これがB道なら地図上にも分岐があり矛盾が少ないのですが…(ただこの場合には標高の値が合致しません)。
 歩いた結果、道は舗装されているものの昭和43年に歩いた道に雰囲気的には近いのですが、この道自体は丘陵地の低いところを縫うように通っているため、道の西側は数メートルから10m以上高くなっています。(これも私の記憶ですが)道とほぼ同じ高さで、西側の林を抜けると牧草地に続く集結地があったという状況に合致しません。この時併せて写真2のA2道を探してみましたが見つかりませんでした。
 今回の調査では私の過去の記憶に頼っているところがあり、実際はそうではなかったとか、あるいは私が書いていないことでの新たな情報、特に集結地から焼き走りまでの当時の道の情報があればご教示ください(焼き走り展望台に出てからキャンプ場へは右に行ったのか、左に行ったのかあるいは道なりに行ったのかなど)。

備考:今回参考にした地形図は
1. 昭和40年、43年発行の地図は、大正元年の測図を基にして手書きで作成され、昭和26年に応急修正され、前者は昭和36年に道路、鉄道についての資料修正を、後者は昭和43年の(道路について?)資料修正をしている。
2. 昭和49年発行の地図は、昭和45年航空測量に基づき編集され、昭和48年に昭和47年測量の1:25000地形図に基づいて修正されている。
3. これ以後の地図は全て1:25000地形図から編集されている。

                                        中谷吉伸